[えのきたけの歴史]鍋にえのきは当たり前じゃなかった⁈

[えのきたけの歴史]鍋にえのきは当たり前じゃなかった⁈

中野市でえのきたけ栽培が始まってもうすぐ70年。
1960年代から産地を見守ってきた、日本きのこマイスター協会理事長・前澤憲雄さんにお話しを伺いしました。

前澤憲雄さん:1948年飯山市出身。JA中野市にて常務理事経済事業本部長、全農長野きのこ専門委員長、日本きのこ学会理事など歴任。現在は日本きのこマイスター協会理事長。

「鍋にえのき」は当たり前じゃなかった?!

1960年代は、流通するきのこのほとんどが椎茸(干し椎茸)でした。珍しい白色のえのきたけは“毒キノコ”の印象が強く、当時はまったく売れなかったんです。

そこで、JAと生産者が協力して始めたのが、宣伝即売会です。市場関係者だけでなく、都内のデパート店頭などで「鍋にえのき」の食べ方をアピールしたところ、おいしいと評判に。飲食店での取り扱いが増え、次第に家庭へと広がり、需要を伸ばすことができました。今では当たり前の「鍋にえのき」は、こうした宣伝活動が実を結んだものなんですよ。

ほかにも、病院や大学との共同研究で得たえのきたけの機能性を発表したり、えのき氷の開発など、話題作りを常に行っています。中野市は、生産の工夫だけでなく、消費拡大のための活動にも力をいれてきたことで、日本屈指の産地になったのです。
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前澤さん、貴重なお話しありがとうございました。
現在でもJA中野市では、売り場に「えのたん」が登場する販売会やきのこもぎ取り体験、キッズ向けえのたんイベントなどを行い、消費者の皆様とのコミュニケーションを大切にしています。また、なかのきのこ新聞やレシピサイトなどを通して、食べ方や健康情報も発信しています。これからも、ぜひ産地発の情報にご注目くださいね。

投稿日:2025年3月24日